五十嵐久人は世界初の大技でモントリオール五輪の金メダルを!男子体操団体5大会連続に貢献!【消えた天才】
オリンピックの体操男子の日本代表といえば
日本のお家芸と言われた体操。
記憶に新しい体操選手のスターというと、森末慎二選手、池谷幸雄選手、富田洋之選手、内村航平選手などが思い浮かびます。
しかし、近年の男子体操界は、それまで体操界を牽引してきた素晴らしい先輩方から引き継がれています。
五輪の体操競技に日本が初めて参加したのは1932年のロサンゼルス五輪でしたが、団体戦は5カ国参加中の5位。第2次世界大戦をはさんで、戦後は1952年のヘルシンキ五輪(5位)から五輪に復帰、1956年のメルボルン五輪で銀メダルを獲得する。団体戦における日本の栄光の歴史は、このあたりから始まったと言えるだろう。
日本男子体操団体の部は1960年のローマオリンピックから5大会連続金メダルという不滅の大記録があります。
前人未到のオリンピック5連覇。種目別など含めて合計23個の金メダルを量産しました。
今日はその記録に貢献した天才選手について、「消えた天才」で特集。
彼は五輪で決めた「世界初の大技」をその後、なぜか一度も決めることなく、体操界から消えた…衝撃の真相を本人が語ってくれます。
それは1976年モントリオールオリンピックに出場した選手は梶山広司、監物永三、五十嵐久人、加藤沢男、藤本俊、塚原光男。
この中の「消えた天才」とは、五十嵐久人選手です。
スポンサーリンク
五十嵐久人選手のwiki風。。
五十嵐久人
生年月日:1951年2月19日。
出身地:栃木県
出身校:日本大学
現在は2016年3月まで新潟大学で教授を務め、現在新潟大学名誉教授。国際大学スポーツ連盟理事。
五十嵐選手にはモントリオール5輪でのこんな逸話があります。
1976年モントリオールオリンピック。日本勢はエース笠松茂がカナダ到着後に発病し補欠だった五十嵐選手が代わりに出場することになります。
五十嵐選手はこう語ります。
「本番の5日前に故遠藤(幸雄)コーチに部屋に呼ばれ、笠松が盲腸で手術することになったから、代わりに出てくれと。え!? 嘘だろと。その瞬間、突然体がこわばり、視野が狭くなった。目の前の一点しか見えなくなった」
「日本は金メダルが狙えるだけのメンバーが揃っている。五輪団体5連覇もかかっている。補欠の私が笠松さんの代わりに出場し、もしも失敗して金メダルを逃せば、私は日本中から批判されるでしょうし、孫の代まで言われます」
エース笠松茂の欠場が決まり、五十嵐選手も団体選手に加わる中、団体総合ではソ連(現・ロシア)を0.5差で追う日本は徐々に差を詰めていった。しかしつり輪の演技終了後、藤本俊が負傷のため協議の続行が不可能になる。
上位5名の得点が採用されるため、残り5人は失敗もケガも許されない。文字通りの背水の陣に。
この誰一人失敗の許されない状況で急遽五十嵐選手に順番が回ってくる。
そして、五十嵐選手は「世界初の大技」を決めて大健闘するのです!
「七番目の補欠」だった五十嵐選手は安定した演技を披露。日本は初日首位のソ連を逆転し、金メダルを獲得しました。
しかし、その時の演技でやった「世界初の大技」をその後、なぜか一度も決めることなかったといいます。
その衝撃の真相とはなんなんでしょう!