清水哲は桑田真澄の先輩(PL学園)は悲劇の天才投手【消えた天才】
桑田真澄の先輩・悲劇の天才投手
元プロ野球選手・桑田真澄投手の先輩で悲劇の天才投手。という言葉を聞いたときはすぐに分かりました。
それは20年ほど前にこんな本を読んだことがあったからです。
桑田真澄、清原和博がPL学園時代でKKコンビとして活躍した時の1つ上の先輩、清水哲さんの著書
「桑田よ清原よ生きる勇気をありがとう」です。
清水哲さんはPL学園高校野球部で春夏連続準優勝を経験しました。しかし、大学(同志社大学)進学後、野球部に入りその試合中にスライディングで相手チームの選手に突っ込んだところ頸椎を損傷し、肩から下が動かなくなってしまいました。
首の骨が折れてしまっていたのです。そして頸椎を損傷したということはそのまま寝たきりになるということでした。
一生寝たきり。野球であれだけ活躍してきた清水さんがそれがわかった時は絶望しかなかったということです。人に迷惑をかけるくらいなら死んでしまったほうがいいと、しかし手足を1ミリも動かせなくて自分で死ぬことすらできない。
そんな清水さんは、お見舞いに来た桑田選手に「俺を殺してくれ」とまで頼んだそうです。。
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清水選手の活躍
清水哲
1966年4月9日生まれ。大阪府守口市出身。
清水選手は、小さいころから野球が好きで将来はプロ野球選手を夢見ていました。
プロ野球選手になるにはとにかく甲子園に出場しないといけないと思っていました。
そんな時、PL学園の野球部が夏の大会で初優勝したのです。試合では、「負けそう」になっていたところを粘り強くがんばり、最後に勝ち、それをみた清水選手は「高校はPL学園に入って甲子園に行くんだ!」と思っていたそうです。
そしてPL学園の野球部に入った清水選手は高校3年生の時に春夏と甲子園出場し、準優勝したのです。
夏の選手権大会の決勝戦、9回裏3対4で負けているところに放った同点ホームラン。これは彼がちいさいころに憧れていたPL学園の試合の1場面のようだったといいます。
大学でも野球を続け、プロ野球の選手になるために突き進んでいた矢先の事故。人生が一転、どん底に突き落とされ、毎晩人知れず泣いたと言います。
リハビリをしてもどうせだめだと拒んでいた彼でしたが自分より小さな女の子が楽しそうにリハビリする姿に恥ずかしいと思い、がんばることにします。そして、右手だけがどうにか動かせるようになり、車いすの自動操縦ができるところまで回復したのです。
そして彼は口に棒を加えてパソコンを打つという作業をすることもできるようになり、それで本を書くこともしました。9年かかった著書、それが先ほど紹介した「桑田よ、清原よ生きる力をありがとう」です。これがベストセラーになりました。
その後、清水さんのお父さんが倒れ、母が介護に専念しなくてはいけなくなったため、清水選手は一人暮らしをすることを決意します。
そして、福祉サービスに手厚い枚方市を選び、介護やヘルパーさんの力を借りて生活していました。
そして、そのヘルパーをしていた由美子さんという女性と出会い、ご結婚されたのでした。
障害者の結婚がすごく難しいと友達のケースをみたり、人から話をきいて、体に障害があるということで結婚ができないというのが納得できなくて、「障害者でも結婚できるんだ」というところに道をつけるためにその選択をしたそうです。
これは本当にすごく勇気のいることでありとてつもない選択だと思いました。
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桑田真澄の憧れの存在だった
清水哲さんが守口八雲中学ではエースとして活躍し、大阪府下大会ではチームの2年連続優勝に貢献されています。
哲さんさんが中学3年のときに八尾市立大正中学2年生だったのが桑田真澄選手です。
とにかく哲さんのピッチングが素晴らしくて憧れの存在だったそうです。
同じPL学園に入った時も桑田選手は哲さんの付き人をしていたほど。
そんな桑田選手に哲さんは弟のようにかわいがったと言われています。
ですから、桑田選手は清水さんの病院に何度もお見舞いに行って敢えて野球の話をたくさんしたと言います。
清水先輩のためにもがんばる桑田選手。。
え、桑田ってめっちゃいいひとやん。。
感動。。。
現在の哲さんの活躍は次ページ↓