羽中田昌(はちゅうだまさし)は韮崎の15番MFで久保建英より観客を沸かせた悲劇のサッカー選手【消えた天才】

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羽中田昌は韮崎の15番MFでレアル久保より観客を沸かせた悲劇のサッカー選手【消えた天才】

花形選手の星、久保建英よりも観客を沸かせたサッカー選手がいた!

久保建英選手といえば、天才サッカー少年の名前をほしいままにした花形スター選手。

小学校2年生でFCバルセロナの主催する日本開催のキャンプでMVPを獲得し、FCバルサスクールの選抜でベルギーで開催されたカップ戦に参加。チームは3位だったが、通常は優勝チームから選ばれるMVPに輝くという。

その後はFCバルサの下部組織入団テストに合格し、スペインに渡る。U-12トーナメントで大会得点王とMVPになったりと、とにかくスター街道まっしぐらな選手。

そんな、花形スター選手の久保建英よりも、観客を沸かせたすごい選手がいた。

1983年。まだJリーグが発足する10年前、まだ高校サッカーが唯一盛り上がる位置づけだったころ、日本のサッカーレベルがワールドカップの出場さえ夢のまた夢のような時代でした。

東京は国立競技場の第61回全国高校サッカー選手権大会。

山梨県代表の韮崎高校と静岡県代表の清水東高校の決勝戦でした。両校なかなかな強豪チームでしたが、まだ高校サッカーの日本一はとったことがなかったので、お互いの初のタイトルをかけての一戦でした。

その後半の10分過ぎに清水東が3点をリードしている場面でその選手が登場。

その時国立競技場は地響きのようなうぉぉぉぉぉー!という歓声で爆発するかんじで6万人の大衆を熱狂させた!!

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その18歳の天才とは羽中田昌選手!!

その選手の名は羽中田昌(はちゅうだまさし)韮崎のミッドフィルダー!

それだけ歓声沸きあがる選手がなぜ試合途中までベンチにいたのか。。

そのストーリーを見た時、何とも言えない運命のいたずらを目の当たりにします。

羽中田昌 はちゅうだまさし

1964年7月19日生まれ。山梨出身。

羽中田選手がサッカーを始めたのは小学校3年生の時。

お兄さんも同じようにサッカーをやっていて、同級生のお父さんが監督をやっていたので、友達とわいわいがやがやとやるのが楽しいくらいでしたが、74年の羽中田選手が小学校4年生の時、西ドイツのワールドカップでオランダのヨハン・クライフを見て衝撃を受け、今まで自分が知っていたサッカーとは別次元のものが展開されているのをみて、衝撃を受けたといいます。

そして、いつしか自分もクライフのような華麗な選手になって、Wカップにでたいという夢ができ、サッカー一色の生活になりました。

小学校5年と6年の時読売ランドであった全国大会の優秀選手に2年連続で選んでいただいて、中学校時代はナショナルトレセンにも呼ばれる。

いつしか全国的にも名前が広まって、マスコミからも注目を浴びる。

いつしかヨーロッパへいって、プロのサッカー選手になりたいという夢を持つようになっていました。

中学は甲府市立西中学にいくが、全国大会の予選を兼ねた大会で韮崎東中学に敗れてしまう。

高校は韮崎高校へ。1年の時からレギュラーで全国大会へ出場しベスト4に。2年の時は準優勝に貢献し、優秀選手に選出されます。

しかし、ここからが一変してしまうのです。1982年の3月高校選抜のヨーロッパ遠征直前に腎臓病を発症。急性腎炎でそのまま即入院してしまう。

3か月の入院生活を送り、その後も運動を禁じられる。なかなか数値が良くならず、サッカーはドクターストップがかかる。なかなか良くならなかったが奇跡的に回復し

それで、1試合にプレーができるのは15分までと医者から言われており、それを条件に復帰。

第61回の全国大会の準決勝と清水東の決勝時に後半から交代出場し、鋭いドリブル突破でスタンドが沸いた!

というわけなのです。

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度重なる壮絶な悲劇、恋人、妻の支え、復活

そんな羽中田選手、高校を卒業し、浪人生となります。サッカー推薦で呼んでくれる大学や企業を断り、一般試験で大学に入るためでした。

そしてその5か月後、同窓会で甲府に帰り、原付で事故を起こしてしまう。

病院に運ばれたが脊椎を損傷し、二度と足が動かなくなってしまう。

支えてくれたのは高校卒業時から付き合い始めた彼女のまゆみさん。

羽中田選手はまゆみさんのためにリハビリをがんばる。

羽中田選手は試験をうけて、山梨県庁の職員になります。まゆみさんは幼稚園教諭に。

そしてまゆみさんと結婚します。

1986年から9年県庁に務めますが、1993年にJリーグが発足し、かつて高校サッカーでともに戦った選手が脚光を浴びるのに触発され、サッカー指導の道を目指すのです。

そして、なんと、1995年にバルセロナに渡る。

2000年に帰国して主にサッカー中継やスポーツ紙などで解説者として活動をすることに。

2006年には身体障害者としては史上初の日本サッカー協会・S級ライセンスを取得します。

そして、車いすのサッカー指導者として活躍をしていくのです。。

羽中田選手の選手生命が絶たれたのは本当にかなしい出来事でしたが、この根性の復活劇、めちゃくちゃ感動ですよね!

これからも羽中田監督の活躍に期待します!!

消えた天才で羽中田監督の復活劇が見れるのが楽しみです!

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